珈琲園 ぶらじる(東麻布)
飯倉の裏町でコーヒーゼリー
地下鉄の神谷町で降りて、飯倉の裏の方を歩いてみようと思いたった。このあたりは昔の散策随筆によく描かれる所だが、なかでも『大東京繁昌記』という昭和初期の名随筆集(昭和3年、東京日日新聞に連載、春秋社から刊行。僕が持っているのは講談社から昭和51年に出た復刻版)の〈山手篇〉の冒頭で、この辺に住んでいた島崎藤村が〈飯倉附近〉と題して刻明に綴っている。
もはや表通り(桜田通り)の風景は激変してしまったが、旧・我善坊町の方へ行く路地から崖地の狭い石段を上って、鬱蒼とした西久保八幡の境内に入っていく経路などは、藤村の時代の面影が感じられる。境内の反対側にも隠れたような石段があって、これを下りると霊友会のビルの狭間に出くわす。
飯倉交差点の先の坂を下って、うなぎの野田岩の横から東麻布の裏町へ入った。かつて森元町といった界隈の商店街は、いま〈麻布いーすと通り〉という、東麻布をもじった名を掲げている。東麻布1、2丁目の低地を、その先の首都高ぞいの大通りと並行するように続く道は何度か歩いたことがある。印刷や金属関係の町工場がぽつぽつと残る麻布の下町的な町並が気に入っているのだが、前にこのあたりで見掛けた「ブラジル」という喫茶店が印象に残っていた。
ちょっと迷いながら行きついた店は、カタカナのブラジルではなく、「珈琲園 ぶらじる」と鮮やかな黄色い幌看板を掲げていた。3、4階建てマンションの1階だが、それなりの歴史を感じさせる町の個人喫茶、という佇まいがなんだかいい。

午前10時過ぎの店内は空いていて、外景を見渡せる窓際の席についた。カウンターのなかに夫婦と思しき初老の男女が入って、傍らのTVから前夜日本が惜敗したサッカーW杯・パラグアイ戦の映像が流れている。店内の装飾で目につくのは、天井からいくつもぶら下がったクラシック風のランプと〈ぶらじる〉の屋号を入れた小田原提灯。そして、戸際のガラスケースに入ったコーヒーゼリーが目にとまり、迷わずコレを注文した。そう、以前に見掛けたときから、こういう店でコーヒーゼリーを味わいたい、と思っていたのだ。
――この店、長いんですか?
――30ナン年か前......昭和50年だったかしら。
その頃建ったマンションってことだろう。バニラアイスがのったコーヒーゼリーを口に運びながら、はじめのうちは人当りの良さそうなママさんの方と雑談していた。マスターはしばしむっつりとした顔つきで、TV画面に目を向けている。これはこういった取材は受けつけないタイプの店だろうと思っていたら、ママさんが振った質問を糸口にマスターも会話に加わってきた。当初の印象とは裏腹に、なかなか気安い人で、興味深い話題が次々に飛び出す。
「ぶらじる」の名は、単に珈琲豆のブラジルにあやかっただけではないようだ。
「ウチのオヤジが初め、浜松町の大門で昭和14年に珈琲屋始めたんだけど、そもそもブラジルに移民して農園やろう、と思ってたらしいんですよ。友だちと一緒に移民志願したんだけど、友だちは当たってオヤジはハズレた。で、思いをこめて『ぶらじる』って付けた。珈琲園っていうのも向こうの農園のイメージなんですよ」
大門の元の店はマスターの兄が継ぎ、いまもレストランとして続いているらしい。
「ボクも若い頃、大門の店で働いてたんだけど、終戦直後から洋食屋に鞍替えして、昔はタクシー運転手の溜り場としてにぎわってたんですよ」
65になるマスターの語り口は、下町商人のベランメェ調にどことなく気品が感じられ、いかにも芝・麻布あたりの古い人らしい。店内に飾られた提灯の屋号は贔屓客の増上寺の筆職人が記したもので、豆は古くから西久保巴町の「松屋」という老舗から仕入れている。
やがて近隣の常連客が入ってきて、店は忙しくなってきた。うっかり聞き忘れたけれど、芝大門で生まれ育ったマスター、東京タワーが出来あがっていく過程なども、ずっと眺めてきたに違いない。
ちなみに、味わったおいしいコーヒーゼリー、もちろん看板のブラジル豆を使ってイチから手作りしたものだ。



