東京日記

川上弘美 絵 門馬則雄
第108回

馬に注意。

二月某日 晴

散歩に行く。

一時間半ほどぼんやり歩いていたら、実家のある駅に着いてしまった。

 そのまま実家に行こうかどうしようか、ひどく迷う。

 手ぶらで、ちり紙しか持っていなくて、おまけに、今書いている小説のことを道々考えていたせいで、ものすごく邪悪な顔になっているとおぼしいからだ(小説の筋や細かなあれこれを考える時、わたしはいつもひどく邪悪な顔つきになるらしい)。

 さんざん迷ったすえ、結局実家に行く。帰りも歩くには疲れてしまっていたので、電車賃120円を借りる必要があったのだ。

 できるだけ柔和な表情をつくり、そっとチャイムを押す。

 さいわい、表情については事なきをえたが、51歳にもなって電車賃の120円すら所持していないことについて、がみがみと叱られる。

 ほうほうの体で、帰宅。

 

二月某日 晴

お寿司を食べに、町に出る。

けれど、めあてのお店は、臨時休業。

代わりに入るお店をさがしてぼんやりと歩いてゆくうちに、町はずれに出てしまう。

住宅街の道すじに車両通行禁止の看板があり、その看板の隅に、

「馬に注意」tokyo-2010-04a.gif

と書いてある。

何回も目をこすって読み直したが、まちがいはない。

 いったいこの町の、どこに、どんな、馬が!?

 

 

二月某日 雨

この前臨時休業だったお寿司屋さんを、ふたたび訪ねる。

 開いていて、安心する。

 「どうしたんですかこの前は。風邪でもひいたんですか」

 と聞くと、ご主人は頭を掻きながら、

 「いやあ、ほたてに嚙まれちゃって」

 「えっ、ほたて」

 「ええ、ほたて。ひとさし指をこう、がぶりとね」

 「がぶり。血は出たんですか」

 「そりゃあもう、どくどくと。包帯して鮨握れないから、しょうがない、この前は休みにしちゃいましたよ」

ほたてが、そんなにも凶暴だったなんて、今の今までまったく知らなかった。

馬といい、ほたてといい、まだまだ人生は知らないことだらけである。tokyo-2010-04b.gif

 

二月某日 雪

遅ればせの新年会。

死んだ飼い犬の骨を、ペンダントにして首からさげている人がいて、驚く。

「どの子とも離れがたくて、こうやってペンダントにしていつも身につけてるんです。このほかにも、猫が三匹ぶんに、犬もあと二匹ぶん。カピバラも飼ってたんですけれど、これは火葬にしないで庭に埋めたから、骨はないんです」

 とのこと。

骨は、ざらざらしていて、珊瑚に似ていた。

その夜は、少し焼酎を飲みすぎて、悪酔い。

  • 第121回  ソリティア断ち。
  • 第120回  すぽん。
  • 第119回  激しく後悔。
  • 第118回  すべて空白。
  • 第117回  必然性なし。
  • 第116回  経費節減。
  • 第115回  精神的DVD。
  • 第114回  うふびたにさん。
  • 第113回  おかあさん、ニューヨークなの。
  • 第112回  聞き耳をたてる。
著者略歴

川上弘美(かわかみ・ひろみ)
作家。1958年、東京生まれ。著書に、『蛇を踏む』(芥川賞受賞) 『センセイの鞄』(谷崎賞受賞) 『神様』 『ハヅキさんのこと』 『真鶴』(芸術選奨文部科学大臣賞受賞)『風花』 『東京日記 卵一個ぶんのお祝い。』『東京日記2ほかに踊りを知らない。』ほか多数。
最新刊「東京日記3 ナマズの幸運。」も、好評発売中。

平凡社

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