第25回 「「主」である神の属性(三)永遠」
●神の永遠性
神の永遠性も、神が主であるということの属性だ。佐藤敏夫はこう述べる。
〈神は永遠であることも神は主であることに含まれる。神の本質が主であることにあるとすれば、永遠にわたって主でないような神は考えられない。われわれはここで、カール・バルトがその『ローマ書』第二版序文で引用したキェルケゴールの言葉をもう一度持ち出したい。「もし私が『方式』なるものをもっているとすれば、それは、私がキェルケゴールのいわゆる時間と永遠との『無限の質的差異』なるものの否定的および肯定的意味をあくまで固守したということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』」(吉村善夫訳)。われわれはこの時間と永遠との質的差異ということに注目する。それゆえにわれわれはクルマンのように、永遠を時間の無限の延長としてとらえ、時間をその一部とする見解をとらない。永遠は時間を超越するものであり、永遠と時間の間にはテンションがある。しかしわれわれは永遠を無時間性とすることによって時間を永遠の中に吸収させるものでもない。永遠と時間はどこまでも区別されるが、神の永遠には独自の仕方で神固有の時間性がある。すなわちそこには神固有の過去、現在、未来がある。バルトが言うように、神はキリストにおいてかつていまし、いまいまし、未来においていましたもう神である。〉(佐藤敏夫『キリスト教神学概論』新教出版社、1994年、101頁)
永遠について理解するためには、時間の構造を正確に把握しておく必要がある。時間は流れている。われわれは、未来と過去の間、つまり「時の間(zwischen den Zeiten)」に生きている。われわれが認識する時間は、常に現在だ。しかし、われわれが時間を認識した瞬間にその時間は過去のものになってしまう。それと同時に未来の時間がやってくる。このような意味で、時間は「永遠の今」としてしかとらえることができない。
今度は、意志の側面から時間を見てみよう。われわれは過去のしがらみに拘束されている。そこから自由になって生活したり思考することはできない。同時に、われわれには未来の可能性について、無限の選択肢がある。その意味で、「制限の中の自由」をわれわれは行使しているのだ。この自由の行使も、「永遠の今」であるこの瞬間において、各人の主体的時間なのである。
そして、神の時間が人間の時間に介入した瞬間が、神にとっての「永遠の今」だ。言い換えると、イエス・キリストの出現である。神の永遠性によって、神論からキリスト論への回路を求めることができる。
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