第23回 「「主」である神の属性(一)聖性、全能」
●神の属性としての聖性、全能
神の属性については、とりあえず中世スコラ神学の伝統を踏まえた16~17世紀の古いプロテスタンティズム神学の枠組みで理解することにしよう。現代神学の神論は錯綜しているので、大枠は少し古い神学の枠組みで理解するしかないからだ。
前に述べたように、神の本質として、主であることと愛であることがあげられる。そして、それぞれから神の属性が導かれる。佐藤敏夫の言説を踏襲し、主であることから、導かれる属性が聖性、全能、全知、遍在、永遠であるとする。
聖性は、神と人間の質的断絶に根拠づけられる。プロテスタンティズムの理解では、罪によって堕落した人間には、聖なる要素はまったくない。従って、カトリック教会、正教会において神父を聖職者と考えるのに対して、プロテスタント教会において牧師は他の信者と同じ「普通の人」であり、聖性はもたない。聖性は牧師という人間に宿るのではなく、牧師が語る「神の言葉」の中にあるのだ。
神が主であるということは、主権者であると言い換えてもよい。近代国民国家の主権概念も、神の主権が国家に転化したものだ。神は主権者であるから全能なのである。しかし、神にとっても不可能なことがある。
〈アウグスティヌスによれば、神は死ぬこと、あるいは欺かれることはできない。アンセルムスによれば、神は堕落したり、嘘をついたり、真を偽りとすることはできない。トマスによれば、神は動くこと、失敗すること、疲れること、過去をなかったものとすること、自己を無いものとすること、彼が為したことを予知しなかったことにすることはできない。〉(佐藤敏夫『キリスト教神学概論』 新教出版社、1994年 100頁)
このうち、トマス・アクイナスの言説については、プロテスタント神学の立場からは基本的な異議がある。神はダイナミックな存在なので、「動くことができない」というトマスの神観を受け入れることはできないのである。
ここで重要なのは、神の全能とは、人間の側からの哲学的思弁によってもたらされるものではないということだ。神が人間に働きかけることによって生じる人間の信仰にもとづいて生まれる神認識の中で、全能も理解されなくてはならないのである。
神は全能であるからこそ、あえて死を引き受けたのである。神がひとり子を人間の世界に送る、すなわち、受肉も、神の全能に根拠づけられる。イエス・キリストが十字架の上で死んだことも、受肉の必然的結果だ。従って、神の全能に根拠づけられるのである。全能であるから、あえて弱い者となるという選択が可能であったという逆説を理解することが、キリスト教を理解する際のポイントの一つだ。
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