佐藤優 : キリスト教神学概論

第22回 「神の本質―「主」」であり「愛」であること」

●神の本質と属性

 過去に神学者は、神の本質と属性を区別して、神について理解しようとした。この図式を借用して、神について考察してみる。
 この発想は、実体を想定する。実体をもった本質が、さまざまな属性をもつ。佐藤敏夫は本質と属性の関係について、こう述べる。

〈属性(Eigenschaft)は、主体が「何をもつか」という問いに対する答えである。何かをもつかぎり、その何かは主体に所属しているものである。それは主体に支配されていると言っても良く、主体にとって客体化されたものと言ってもよい。属性に対する本質は、諸属性によって構成されたものである。しかし、本質はそれら諸属性の単なる寄せ集めではない。単なる寄せ集めなら、依然として主体に所属するものにすぎないであろう。それは主体に所属せず、むしろ主体そのものである。いわばそれら諸属性を超越している一種の超越概念である。〉(佐藤敏夫『キリスト教神学概論』新教出版社、1994年、97頁)

 諸属性の総和が本質を意味するのではないという点が重要である。ここでいう本質は、中世のリアリズム(実念論)の系譜に立つ、人知によって捉えることができない超越性なのである。これから紹介する過去のスコラ的な議論の残滓から、超越性を想起することが重要だ。


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神の本質①:主であること

 筆者自身は、神の本質、属性という区分による議論を基本的にとらない。しかし、本連載の目的は、キリスト教神学に関する基本的知識を身につけることであるので、自説には固執しない。また、論争的態度もとらない
 そこで、ここでは佐藤敏夫の議論を全面的に踏襲する形で、神の本質と属性について紹介する。
 神の本質は、主であるということだ。それは基本的な本質である。言い換えるならば、少なくともこの世の全ての存在に対して神の主権が行使されるということだ。そして神はこの世以外においても主である。神は人間の霊も支配するのである。神が主であるということは具体的に三つの形で現れる。

〈第一に、犯しがたい尊厳さに満たされ、被造物にたいして近づきがたい距離をもち、無限の栄光に包まれている存在であるということである。〉(前掲書98頁)

 被造物には人間も含まれる。神は人間に対しても、「近づきがたい距離」をもつのであるが、真の神であり真の人であるイエス・キリストの出現によって、この距離がうめられ、神と人間の和解が可能になるのである。この和解が可能になる根拠も、超越的で絶対的な尊厳をもつ神の恩寵によってのみ可能になるのである。

〈第二に、神が主であることは、神は万物のテロスであり、万物は神のため、あるいは神の栄光のため(soli Deo gloria)にのみ存するということを意味する。〉(前掲書同頁)

 テロス(τελοs)とは、ギリシア語で目的を意味することばであるが、同時に終わりと完成も意味する。終末論のところで詳しく論じることになるが、キリスト教において歴史の終焉は、同時に神の目的が完成することを意味する。このような目的に向かって思考する目的論(teleology)がキリスト教神学の特徴でもある。

〈第三に、神が主であるということは、神は万物が服従し信頼すべきかたであることを意味する。神は万物に対して自己の意志に服従することを要求する。〉(前掲書同頁)

 神と人間の関係に、民主主義は存在しない。人間は神に隷従する存在なのである。神は、あるとき突然、人間に命令を与え、服従を求める。神の命令を受けた人間は、それに服従するか反抗するか、いずれかの選択しかもたない。神の命令に反抗した人間は、永遠に滅びることになる。神は反抗者に対しては、徹底的に厳しい姿勢で自己の主権を貫徹する。神は人間の反抗を絶対に許さないのである。神の命令に隷従することが、人間に自由を与えるのだ。人間の側から見るならば、神への隷従と信頼は同一である。


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神の本質②:愛

 神の本質は、第一義的に主である。主である神の働きとして愛がある。ただし、愛は神の属性ではなく、本質そのものだ。
 神は愛であるという表現は誤解を招きやすい。日本語において、もともと愛は性愛を意味する。神の愛として用いられているギリシア語のアガペー(αγαπη)の訳語として愛が適切であったかどうかは神学界においても議論の対象となっている。もっともヨーロッパ語においても、愛に相当する英語のラブ(love)、ドイツ語のリーベ(Liebe)は性愛の意味を含むとともに、ギリシア語のエロース(ερωs)の意味があるから、キリスト教で説くアガペーを十分に表現できているとはいえない。

〈エロースは自己に欠けているものを自己の外に出て行って満たす愛である。しかるに神は自己自身において満ち足りている方であり、自己の外に出て行く必要はない。したがって神の愛はエロースであるとは言われえないのである。しかし、キリスト教においてはアガペーという意味で神は愛であると言われる。この場合、神は自己自身において満ち足りているにもかかわらず、人間のために自己の外に出て行くということが意味されている。しかも神は必要から出てゆくのではなく、自由な愛から出てゆくのである。その意味でキリスト教では神は愛であるといわれる。〉(前掲書99頁)

 日本語の愛にも、アガペーにつながる要素はある。とりあえず「見返りを求めない愛」という表象から、アガペーについて考えてみるとよい。
 神は自分自身では満ち足りているのに、この世界を作ったのである。その理由も愛に求められる。
 人間との関係で神が示した最大の愛は、人間を罪から救済するために、神自身であり、神のひとり子であるイエス・キリストをこの世界に派遣したことだ。そして、イエス・キリストは十字架の上で処刑されたが、これも神の愛の業なのである。神の愛とは、人間との具体的関係において示される関係概念であり、愛を定義することはできないということだ。

  

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(2008年10月 1日更新)
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佐藤優
写真提供=共同通信社
【著者略歴】
1960年生。起訴休職外務事務官・作家。同志社大学神学部卒業。同大学院神学研究科終了。緒方純雄教授に師事し、組織神学を学ぶ。1985年に外務省入省。在英日本国大使館、ロシア連邦日本大使館などを経て、外務省本省国際情報局分析第一課に勤務。外交官として勤務するかたわら、モスクワ国立大学哲学部客員講師(神学・宗教哲学)、東京大学教養学部非常勤講師(ユーラシア地域変動論)を務める。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕。2005年2月、執行猶予つき有罪判決を受け、現在上告中。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞、並びに第5回新潮ドキュメント賞、『国家の罠』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞を受賞。『私のマルクス』(文藝春秋)、『獄中記』(岩波書店)など著書多数。

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