佐藤優 : キリスト教神学概論

第21回 「神の証明」

●神の自己規定

 キリスト教の神は、人間とは本質的に異なる。従って、人間の思弁によって神についての証明を行うことは不可能である。古代教父の時代から、神学者や哲学者が神の存在を証明しようとしたが、そのような問題設定自体が誤っている。
 旧約聖書の「出エジプト記」において、神は自らについてこう語っている。

〈モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
 モーセは神に尋ねた。
「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。
「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
 これこそ、とこしえにわたしの名 これこそ、世々にわたしの呼び名」〉(「出エジプト記」第3章1~15節)

神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」という自己規定を行うことによって、一定の形態の表象に神の姿を固定しないのである。神が、いつ、どのように私たちの前に現れるかは、神の自由な意思に完全に委ねられているのである。


●限界の中での神についての思考

 しかし、神学は人間が神について知ろうとする努力を否定しない。それは「不可能の可能性」に挑むことが、神学の特質だからである。過去において、神学者は神の存在を証明するために多大な努力を行ったが、どの試みも成功しなかった。
 ペールマンは、神の存在証明について次のように述べている。

〈神は、ただ対象的世界にしか存在しない確実な証明では捉えられない、絶対的秘義なのである。神は、[人間に]自由処理可能な対象ではない。
 神は証明されない、神は自己自身を現すのである。ただ神の存在証明はないとしても、神を指示することはできる。〉(ホルスト・ゲオルク・ペールマン『現代教義学総説新版』新教出版社、2008年、177頁)

 このペールマンの認識は基本的に正しいと筆者も考える。原文のWenn es auch keine Gottesbeweise gibt, so doch Gottesbeweise.に直訳調の〈ただ神の存在証明はないとしても、神を指示することはできる〉という訳が与えられているが、意訳すると「神の存在に関する証明が存在しないとしても、神の存在について個々の神学者がどう考えているかについて述べることはできると思う」というような意味である。
 対象的世界、すなわち主観(主体)と客観(客体)という二分化(ダイコトミー)によってなりたつ現実に存在する世界において、神の存在を確実に証明することはできないのである。しかし、証明できない神を信じる力をわれわれはもっている。まさに、不合理であるが故に信仰の対象になるのだ。キリスト教は、救済宗教なので、基本は信仰である。
 ロシア正教の神学者ならば、「絶対的秘義に対して疑念を抱かずに、ありがたく信じるんだ」という形で問題を処理するのであるが、プロテスタント神学者は人間の知性が疑念を抱きうる事項について回避することを正しい姿勢と考えない。プロテスタンティズムを信奉する筆者も、疑いがある問題については、人知が及ぶぎりぎりのところまで思考することを、信仰のために求められている。神学的アプローチに限界があることを十分自覚した上で、神について問うのである。


〈演習問題9
 なぜ神の存在について確実な証明をすることができないのか。簡潔に記せ。(300字~600字程度)〉


 

※演習問題のご回答は、件名に「佐藤優さん:演習問題9」とご記入のうえ、webmagazine@heibonsha.co.jpまで、お寄せください(件名が無題の場合、無事にお届けできない場合がございます)。 随時、受け付けておりますので、ふるってご回答ください。

 

 

 

 

 

(2008年9月24日更新)
前へ
次へ
バックナンバー
佐藤優
写真提供=共同通信社
【著者略歴】
1960年生。起訴休職外務事務官・作家。同志社大学神学部卒業。同大学院神学研究科終了。緒方純雄教授に師事し、組織神学を学ぶ。1985年に外務省入省。在英日本国大使館、ロシア連邦日本大使館などを経て、外務省本省国際情報局分析第一課に勤務。外交官として勤務するかたわら、モスクワ国立大学哲学部客員講師(神学・宗教哲学)、東京大学教養学部非常勤講師(ユーラシア地域変動論)を務める。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕。2005年2月、執行猶予つき有罪判決を受け、現在上告中。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞、並びに第5回新潮ドキュメント賞、『国家の罠』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞を受賞。『私のマルクス』(文藝春秋)、『獄中記』(岩波書店)など著書多数。

平凡社

Copyright (c) 2008 Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo All rights reserved.