第18回 「神論の入り口」
●講義の順序
それでは、教義学についての講義に入りたい。本来は、方法論と予備的考察から始めなくてはならないのだが、それについてはある程度の神学知識がなくてはわからないという循環構造になってしまうので、いきなり本論から始める。読者からの手応えを見つつ、そろそろ方法論について語る時期と思ったところで、これらの議論を展開する。
講義は以下の順序で行う。
神論
創造論
人間論
キリスト論
救済論
教会論
終末論
このうち、キリスト論、救済論、教会論を括って和解論としてもいいが、この部分は教義学の最重要事項なので、あえて細分化することにした。
●神論の入口
それでは、神についての議論を始めよう。一般にキリスト教は、一神教であるといわれる。確かにそうであるが、キリスト教の神は、ユダヤ教の神やイスラームのアッラー(神)とは別の現れ方をする。
佐藤敏夫は、キリスト教の神について、こう述べる。
〈宗教学的に見れば、キリスト教は先ず唯一の神を信じる唯一神教である。しかしそれだけならば、キリスト教はユダヤ教やイスラム教と違わない。キリスト教独自の神観ということになれば、三位一体の神ということを言わなければならない。神は唯一の神であるとともに、父、子、聖霊という、三位格の神であるというわけである。〉(佐藤敏夫『キリスト教神学概論』新教出版社、1994年、88頁)
適切な問題設定だ。ちなみに三位一体(さんみいったい)のことを三一(さんいつ)ともいう。三位一体というと、「位格」や「体」という特定の概念に基づいた神学的立場を前提とするので、ただ三と一を結びつけた三一の方が日本語の訳語として適切と思う。ただし、三位一体という言葉が市民権を得ているので、本連載においては、両方の言葉を用いる。
キリスト教の難しさは、唯一の神を信じているはずなのに、人間の前に、父、子、聖霊という三つの神が現れることである。まず、なぜそうなるのかという結論を述べると、三一神によって、人間の救済が確実になるからである。
それから、これも結論を先に述べると、三一を神学的にどう理解するかについては、神学の世界において、現在も結論がでていない。予見される未来においても、結論がでることはないと思う。
●聖書に三一という言葉はない
聖書に、父、子、聖霊の名が並記されることは、〈だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、〉(マタイによる福音書第28章19節)のようにときどきある。しかし、聖書では三一という言葉は用いられていない。松村克巳はこう記す。
〈信仰と、その言語的・概念的表現または説明としての教理とは、区別して理解する必要がある。聖書には三位一体という語はなく、この教理はのちの教会の生んだものである。神・キリスト・聖霊を《trias》(三幅対)という語で呼んだのはアンテオケのテオフィロス(180頃)で、この語から《trinitas》(引用者註:三一、三位一体)という語を作り出したのはテルトゥリアヌスだといわれている。しかしこの教理の土台となる三一神の信仰は新約聖書の宗教、したがってキリスト教における救の経験の特色だといえる。神はイエス・キリストをとおし、聖霊によってみずからを啓示し救のわざをなす。〉(日本基督教協議会文書事業部キリスト教大事典編纂委員会編『キリスト教大事典 改訂新版第2版』1973年、451頁)
三一論は、聖書に明確な起源を持つものではない。裏返して言うならば、三一論を承認しない者でも、イエス・キリストが救い主であると信じる者はキリスト教徒なのである。三一論を正統と異端の「踏み絵」にする発想は間違っている。
●内在的三一論
神は、神であることに自己満足せずに、具体的な歴史に姿を現す。それは、人間を救済するための神の愛にもとづく運動なのである。このような神が参与する歴史を、神学では救済史と呼ぶ。
神学においては、この救済史を成り立たせる神の論理を明らかにすることが、三一論の基本問題になる。これが、内在的三一論(immanente Trinität)である。内在的三一論は、三一論の基本中の基本だ。同時にそれは、キリスト教神学全体において、最も難解な部分である。
佐藤敏夫は、内在的三一論について、こう述べる。
〈三一論は内在的(永遠的)三一論と経綸的(救済史的)三一論に分かれる。前者は創造、和解、完成という救済史的過程以前の永遠における三一性を意味し、後者は救済史的過程において展開される三一論を意味する。先ず問題は神は何故一であるのみならず三であるのかということである。それは、すでに展開という言葉を使ったが、神は三一論的展開をするからである。
聖書に見られるように、神は生ける神であるとともに霊なる神である。この場合、ティリッヒが言うように、霊は生の最高の次元であり、生のテロスであって、生は霊となろうとする衝動をもつ。この意味において神はこの衝動を最高度に実現した霊なる神である。ところで生ける霊(引用者注:聖霊)なるものは一定の運動をする。それは自己の外に出て自己でないものになり、また自己自身に帰ってくるという運動である。生ける霊なる神も同様であって、神は自己の外に出て自己でないものとなり、自己と向かいあい、その上で自己自身にかえる。ヘーゲル的用語を使えば、即時存在(Ansichsein)から対自存在(Fürsichsein)となり、ふたたび即時且対自存在(An-und-F ür-sich-sein)に帰るということである。〉(佐藤敏夫『キリスト教神学概論』90頁)
神学者は、ヘーゲルの用語を用いて神学的概念について説明することを避ける傾向がある。それは、ヘーゲル体系だと、神が人間の歴史に解消されてしまう危険性があるからだ。ここで、佐藤敏夫は、あえて勇気を出して、ヘーゲルの即時存在-対自存在-即時且対自存在という構成が内在的三一論を示していると論ずるが、これは正しい。ヘーゲルを注意深く読めばわかることであるが、即時存在-対自存在-即時且対自存在という構成は、時間の流れとは独立して(無関係に)成立するからである。
父、子、聖霊という神の相互関係に、前後関係、優劣の関係はいずれも存在しないのである。つまり、父、子、聖霊は、それぞれ等しいのである。さらに、父、子、聖霊は、いずれも永遠なのである。
これ以上、細かな神学的議論を紹介しても、読者が消化不良を起こすだけと思うので、内在的三一論は、神に関する神学的議論の根幹中の根幹であるということを確認して、とりあえず先に進むことにする。
●経綸的三一論
経綸的三一論(ökonomische Trinität)の経綸とは、神の経営と置き換えてもいい。神によって、支配され、経営される、救済史における三一論の研究だ。
内在的三一論で、永遠(あるいは時間が停止した世界)において構造を明らかにされた神が、現実の時間の中に自らを投入していくのである。そして、内在的三一論で示された神の救済に関する計画を、現実の歴史においても実現するのである。
再び佐藤敏夫の言説を見てみよう。
〈神は永遠において三一性を展開するとともに、そこを出て時間において三一性を展開する。それをキリスト教神学では経綸的三一論ないし救済史的三一論という。永遠の三一性において休らう神が運動することを決意し、自己の外に出て時間の中に入って行くのである。そして永遠において意志決定した救済計画、自己の永遠の決定(eternal decree)を時間の中で実現してゆく。その過程もまた三一論的である。すなわち神は自己の外に出て、自己でないもの、すなわち人となる。それがみ子の派遣ということである。その延長上において、受肉、十字架、復活という出来事がおこる。そして昇天してキリストが父なる神の右に座すとともに、聖霊がこの世に派遣される。このようにして、キリストにおいて救済の出来事が三一論的に展開される。しかしそれだけではない。父は天地を創造し、子はわれわれに和解をもたらし、聖霊はわれわれに聖化と栄化(完成)をきたらせる。ここにも三一論的な救済史の展開がある。〉(前掲書93頁)
実は、教義学の記述順序は、経綸的三一論の論理に即しているのである。筆者は、最初に本講義を、神論、創造論、人間論、キリスト論、救済論、教会論、終末論の順番で論じていくとしたが、神論、創造論、人間論では主に父なる神、キリスト論、救済論では主に子(イエス・キリスト)なる神、教会論、終末論では主に聖霊なる神について議論を展開していくことになる。
経綸的三一論は、キリスト教徒の行動と表裏一体の関係になるので、倫理とも結びついている。
〈演習問題5
内在的三一論について簡潔に説明せよ。(300字~600字程度)〉
〈演習問題6
経綸的三一論について簡潔に説明せよ。(300字~600字程度)〉
※演習問題のご回答は、件名に「佐藤優さん:演習問題5、6」とご記入のうえ、webmagazine@heibonsha.co.jpまで、お寄せください(件名が無題の場合、無事にお届けできない場合がございます)。 随時、受け付けておりますので、ふるってご回答ください。


