佐藤優 : キリスト教神学概論

第17回 「演習問題  評価と講評 ①」

●演習問題回答に対する評価と講評

  評価は、ABCDEで行った。
 100点満点で、
 Aは、80~100点
 Bは、70~79点
 Cは、60~69点
 Dは、40~59点
 Eは、 0~39点
である。大学の基準で言うならば、C以上が合格である。
 形式的要件を守ってほしい。具体的には、制限字数を超えないことと、答案以外の内容(感想、照会、テーマに関する独自見解など)は、分けて記すことである。答案以外の内容についても、筆者はきちんと読んでいる。
 本連載をコピーペーストした答案でも受け付ける。ただし、重要なことは、理解できているかどうかだ。コピーペースト型の答案を一回作り、それを読んで、今度は、自分の言葉で書き直すと確実に実力がつくので、お勧めする。
 講評に、答案作成者の名前は記さない。
 それでは、具体的に答案を見てみよう。

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演習問題1
 シュライエルマッハーが、「宗教の本質は直観と感情である」と規定することによって、神の位置が変わったという。具体的に神はどこからどこへ移動することになったか。簡潔に記せ。(400字程度)>

回答
第1答案
 シュライエルマッハー以前のキリスト教では、神は天上にいるものとされた。これは天動説という学説とも絡んでおり、水平の大地には常に天上があり、そこが神の居場所であった。しかし、コペルニクス的転換で地動説が唱えられると、日本の地下がブラジルの天上であるがごとく、神の居場所=天上という理屈が成立しなくなり、キリスト教上の大きな問題となった。その問題を解決したのがシュライエルマッハーであり、神は個々人の心に存在するという形で神の居場所とした。これにより地動説と神の居場所については矛盾なく説明できるようになった。 

講評 A 連載の内容を正確に理解している。


第2答案
 シュライエルマッハーが、「宗教の本質は直観と感情である」と規定することによって、 神の位置は、かつてカトリシズム、古プロテスタンティズムにおいて存在していると考えられていた「上」から、神は感情によって把握される、一人一人の心の中へと移動した。このことによって、「天にまします我らの神よ」というキリスト教徒の祈りに表象されるような、天にいるとされた神が、コペルニクス以後の「地球は球体であり、太陽の周りを回っている」という世界像と矛盾することなく、共存することが可能となった。そして神が心の中にいるということは、各人が神についてどのような「物語」を作るかということであり、おそらく人間の側からは神を「物語」としてしか語れないと思われる。

講評 A カトリシズムと古プロテスタンティズムの背後にある形而上学的世界像が同一であるというポイントがよくわかっている。



第3答案
 「天上」から「心」に移動した。
 カトリック神学や古プロテスタント神学では、神とは「天にまします」存在であったが、 シュライエルマッハーの「直観と感情」という言葉により、神は個々人の「心」によって認識されるものとなった。したがって、「天上」にいる絶対的な神と地上にいる原罪を持つ人間という対置が従来までの神と人間の関係であったのが、人間の「心」にいる神、人間の「直観と感情」によって存在する神となり、神と人間の立ち位置を大きく変えることとなった。また、このシュライエルマッハーの言葉は、コペルニクスの発見した地動説から提示される「物理的に考えて天上に神はいないのではないか」という問いに対する答えともなった。

講評 A 要は自然科学のパラダイム転換と神学的世界像が対応しているということ。


第4答案
「天上」から人間の「心」に移動した。カトリシズム、古プロテスタンティズムにおいて、神は天上にいた。神がすべての万物を創りだし、ゆえに、神が人間の住む地球を宇宙の中心にすえ、神自身は地上にいる人間を見下ろす天にいると考えられていた。また、当時は天動説が主流であり、地球は水平の大地と天が平行に続いている世界だと考えられていた。しかし、コペルニクスの発見により、地球は球体であり、宇宙の中心ではないことが明らかになったため、従来までの「天にいる神」「地上にいる人」という価値観を維持することが難しくなった。だが、シュライエルマッハーの「直観と感情」という言葉により、神は人間の感情によって把握されるものであると定義され、神はその場を「天上」から人間の「心」に移した。

講評 A ただし創造については、近代的世界像で理解してはならない。この点については今後の連載で述べる。


第5答案
神は天、上から一人一人の心の中に存在するということで、コペルニクス以後の世界像と神が矛盾することなく共存することになった。(以下略)

講評 B ポイントはこのことにつきる。



<
演習問題2
 プロテスタント神学は、なぜ教義という概念を嫌い、教理という言葉を用いるのか。簡潔に記せ。(300字~600字程度)>

回答
第1答案
 カトリックは神の言葉すなわち聖書の内容を公会議で吟味し、そしてそこで決めた教義を信仰する者に伝える。それではどうしても人間の手垢がついてしまい、人間の作り出した教義にならざるを得ない。プロテスタントは文字通りこのようなカトリック教会の組織のありかたへの反抗として生まれた。プロテスタントは神と個人とのダイレクトな関係を大切にしている。よって教理と呼ぶものは神が個人に与えたものであり個人と神との間の約束事であることから、教会を経由して取り決めた教義とは意味が違ってくる。教理の場合、個人と神との間のことなのである。

講評 C すこしずれている。プロテスタンティズムにおける教会の位置付けが正確に理解できていない。


第2答案
 教義はドイツ語で das Dogmaで単数形、単一であることを表す。
 カトリック教会、正教会では唯一絶対に正しいと教会で確定されたものが教義である。教理はドイツ語で die Dogmenで複数形、単一でないことを表す。プロテスタント教会では、各教会は自ら正しいと考える教理を持ち、その見解を他の教会は支持することも、支持しないこともある。個々のキリスト教徒は何か面白い思想を着想することはできるが、所属する教会が承認しなければ、教理となることはない。そしてキリスト教神学の様々な言説である教理は、唯一の神による救済、つまり神の国において収斂し、単一の教義になると考えられている。

講評 A よく理解している。


第3答案
 プロテスタント神学が、教義という概念を嫌い、教理という言葉を用いる理由は、カトリック教会、正教会の教会が確定した、絶対に正しい唯一の教義(ドグマ)との差異化をはかるためである。カトリック教会、正教会に対して、プロテスタント教会は、それぞれの教会が自ら正しいと考える教理をもっており、他の教会はその見解を支持する場合もあれば、支持しない場合もある。教義が単数形(ドイツ語のdas Dogma)であるのに対し、教理は常に複数形(die Dogmen)であることからもそのことがうかがえる(ただし、個々のキリスト教徒が、何か面白い思想を思いついても、所属する教会の承認を得ていないならば、それは教理にはならない)。しかし、プロテスタント神学において様々な見解がありながらも、20世紀最大のプロテスタント神学者であるカール・バルトによると、キリスト教神学の様々な言説が究極的に志向する内容が、一つの神による救済であることを示す、すなわち救済という一点において、キリスト教のすべての教理が収斂するということ、つまり神の国においては、究極的に教理は単一の教義となるという意味をもたせたもの、と考えられている。その点において、プロテスタント神学はカトリシズムのいう教義に対し差異化をはかるために、教理という言葉を用いると考える。

講評 A これも模範答案である。


第4答案
 まず、ドイツ語で教義は単数形(das Dogma)であり、教理は複数形(die Dogmen)であるということを確認しておく。教義という言葉は、カトリック教会・正教会が使う言葉である。カトリック教会・正教会は、キリスト教の教えに関しての統一した見解を持っており、それは「絶対に正しい」もので、信者には他の論をとなえたり、疑問をはさむ余地はない。カトリックという言葉には、「普遍」という意味があるが、その教えもまた「普遍」なのである。カトリック教会・正教会のそういった姿勢に対し、プロテスタント教会は、そもそもの始まりから、カトリック教会に異をとなえる人たちから結成されたという歴史があり、キリスト教の教えに関しても、多義的な見解を持っている。プロテスタント教会のそれぞれが、各々の見解を持っており、他の教会は自身の見解に照らし合わせ、その見解を支持する場合もあれば、支持しない場合もある。カトリック教会・正教会が単一の見解を有するのに対し、プロテスタント教会は多義的な見解を有するのだ。したがって、プロテスタント神学では、カトリック教会・正教会の見解と同じく単数を意味する教義という言葉を避け、複数を意味する教理という言葉を用いるのである。

講評 A よくできた答案だ。正教会、プロテスタント教会においても「普遍」は重要な観念であるが、カトリック教会の観念とどう異なるのか調べてみると理解が一層深まる。要は救済観の相異である。


第5答案
教義は、単数形のdas Dogmaであり、教理は、複数形のdie Dogmenである。プロテスタント神学は、この世での人間の在り方は様々であり、だからこそ、複数形でなければならないと考えたのだろう。また、もしもそこに単数形の教義を決めてしまうならば、人間の営みは妙に決められたものになってしまう、それを嫌がったのだろう。ただし、プロテスタント神学は、教義を否定したわけでは決してない。人間の学びは、神の国の救済に向かって収斂する、そこに究極的な単一の教義がある、ととらえたようだ(とくにバルトの教義学において)。

講評 D 残念ながら、合格点は出せない。教義(教理)と教会の関係、キリスト教の救済観について、復習しておくこと。

 

 

※来週は、小社夏季休業日につき、連載はお休みさせていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

(2008年8月 8日更新)
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佐藤優
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【著者略歴】
1960年生。起訴休職外務事務官・作家。同志社大学神学部卒業。同大学院神学研究科終了。緒方純雄教授に師事し、組織神学を学ぶ。1985年に外務省入省。在英日本国大使館、ロシア連邦日本大使館などを経て、外務省本省国際情報局分析第一課に勤務。外交官として勤務するかたわら、モスクワ国立大学哲学部客員講師(神学・宗教哲学)、東京大学教養学部非常勤講師(ユーラシア地域変動論)を務める。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕。2005年2月、執行猶予つき有罪判決を受け、現在上告中。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞、並びに第5回新潮ドキュメント賞、『国家の罠』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞を受賞。『私のマルクス』(文藝春秋)、『獄中記』(岩波書店)など著書多数。

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