第9回 「日本キリスト教の精神的伝統(3)」
● 精神とは何か?
精神という言葉は、多義的です。魚木はここで精神を、まず、哲学や教理から切り離します。それから、宗教儀礼を精神から切り離します。ここには魚木の比較宗教学的な視座があります。
魚木は、仏教を哲学、教理を重視する人間知的営為を重視する宗教と位置づけます。現代の私たちの常識では、仏教は、教義よりも念仏や題目を唱えたり、あるいは座禅や瞑想を重視する教理や哲学とは親和性があまり高くない宗教のようにとらえられていますが、これは誤りです。仏教は、人間の日常的な見方から非日常的な見方へと、観念的な操作によって知の性格を転換していくというのが、基本的構成です。その意味で、仏教は観念論です。更に、この世の現象は、すべて物事の因果関係によって成り立っているので、実体的な物は存在しません。当然、万物を創造するような超越的な神を想定していません。その意味で、仏教は無神論と言えます。一見、知的営為とほど遠い念仏や題目、座禅や瞑想という実践的結論を導くまでの過程に、徹底した知的追究があります。そして、その結果、人間の知的能力の限界を明確に認識し、そこから日常知を超えた念仏、題目、座禅、瞑想などの実践に至るのです。
次に、魚木は、儒教を儀礼的な宗教(礼教的宗教)と位置づけます。儒教とキリスト教の関係について、魚木は『日本基督教の精神的伝統』においても章を立てて詳しく論じているので、この点については今後の連載で取り扱いますが、魚木は、中国の儒教と日本の儒教を区別しています。
〈最初から儒教を媒介として基督教を理解した支那と比べては、わが基督教史の第一期(筆者註 安土桃山時代のカトリシズム)及び第二期(筆者註 江戸時代の鎖国から開国まで、弾圧され地下に潜ったカトリシズム)に於ける両者の関係はそれ程緊密ではなく、交渉の状態も余程違つて居る。儒教の渡来は仏教よりも早かつたけれども、真に日本的な儒学が生まれるのは徳川幕府の文教政策が確立して後のことであつたから、戦国末期に在つてまだ日本的成熟を遂げない儒教を以て基督教に触発することはない筈であり、もし触発したとしたならば、恐らくは基督教の健全なる発展を妨げたであろう。時を待たねばならなかつた。中江藤樹が出て藤樹学を成し、陽明学派の興隆を見、伊藤仁斎及び其子東涯の堀川学派と之に呼応した荻生徂徠の●園学派が儒教に於ける古学派を起させることにより、儒教が漸く日本的に成育した時に、武士階級にその教養として滲透して行つた時に、初めて我が宗教精神がこの方面から触発することが出来たのであつた。〉
※●はくさかんむりの下にごんべん、「媛」のつくり
次に、魚木は、儒教を儀礼的な宗教(礼教的宗教)と位(魚木忠一『日本基督教の精神的伝統』基督教思想叢書刊行会、1941年、90~91頁)
魚木は、仏教、儒教と比較した場合に、キリスト教は精神的宗教であることを強調しますが、ここでいう精神とはヘーゲルや京都学派の高山岩男が『世界史の哲学』で強調するような、歴史を動かす精神ではありません。
魚木がいう精神とは、人間の救済を可能にする神からの作用です。キリスト教は三一(三位一体)論を基本教義にします。三一神とは、父、子、聖霊からなる神ですが、ここでいう聖霊こそが魚木が考える精神なのです。
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