第7回 「日本キリスト教の精神的伝統 (1)」
●日本人であってキリスト教徒であること
繰り返し述べているように、キリスト教は救済宗教です。イエス・キリストを信じることで救われたと思う人がキリスト教徒なのです。その意味においてキリスト教でいう救済は、民族や特定の社会層に限定されない普遍的なものです。
しかし、キリスト教は、普遍的原理によって、世界の人々を一つの国家や社会に統合してしまうというようなことを考えていません。また、神学においてもさまざまな学派があり、救済観も異なっています。
プロテスタンティズムのカルバン派の場合、救われる人の名前は、その人が生まれる前から天国のノートに書かれています。天国のノートに名前が書かれていない人は、地上でいくら努力しても救われることにはなりません。カルバン派の救済観では、人間的努力は何の意味ももちません。
プロテスタンティズムでも、メソジスト派の場合、回心と清い生活による人間的努力が救済のために不可欠であると考えます。カトリシズムや正教でも、信仰とともに正しい行為が救済のためには必要と考えます。このような考え方は、カルバン派からすれば傲慢に見えます。なぜなら、人間の行為に救済と結びつく積極的な要因を認めることによって、神の専管事項である救済の業に介入しているからです。
また、カトリシズム、プロテスタンティズム、正教は、それぞれに異なった教理体系をもっています。以前から、分裂したキリスト教会を再一致させようという運動がありますが、予見される未来に、諸教会が分裂を克服して一つの教会になるような兆候はありません。
むしろ、キリスト教には、いくつかの類型(タイプ)があるのが現実です。キリスト教を類型としてとらえていこうとすることを19世紀の終わりからR・ゼーベルク、E・トレルチなどが真剣に考えました。
●魚木忠一の神学的遺産
ここで重要になるのは、ゼーベルクの考え方を更に発展させて、キリスト教の日本類型について真剣に考えた魚木忠一(うおきただいち 1892~1954)です。魚木は、1941年に『日本基督教の精神的伝統』(基督教思想叢書刊行会)を上梓し、日本人でありかつキリスト教徒であるということの意味を徹底して考えました。この本の奥付は昭和16年(1941年)12月15日印刷、同20日発行となっています。日本による対米英戦争突入の1週間後に印刷した書物なので、時局迎合的な内容と誤解されていますが、そうではありません。真摯な思索の結果生まれたものです。戦後は長らく絶版になっていた書物ですが、1996年に大空社からリプリント版が刊行されました。
今後、数回の連載で、『日本基督教の精神的伝統』を手引きに、日本人であってキリスト教徒であるということの意味を真剣に考えてみたいと思います。
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