第5回 「神の場所(5)-神はどこにいるのか」
●神の場所の転換
カトリシズム、古プロテスタンティズムにおいて、神は上にいました。「天にまします我らの神よ」とキリスト教徒が主の祈りを始めるのもこのような天にいる神という表象が残っているからです。しかし、よく考えてみましょう。コペルニクス以後、地球は球体であり、太陽の周りを回っていることが実証されました。このようなパラダイムチェンジ(世界像の転換)を受け、天と地について、従来の表象を維持することは不可能になりました。例えば、日本の裏側はブラジルです。日本にいて地の方向をどんどん突き進んでいくと地球を突き抜けてブラジルに至りますが、ブラジルに住む人から見ればそれは天を指しています。物理的に考えて天に神はいないのです。
この問題を見事に処理したのが18世紀末から19世紀前半に活躍した、フリードリヒ・シュライエルマッハーというドイツのプロテスタント神学者です。シュライエルマッハーは「宗教の本質は直観と感情である」「宗教は絶対依存の感情である」と定義付けしました。神は感情によって把握される。つまり、一人一人の心の中にあるのです。神の場所を心の中に移動させることで、コペルニクス以後の世界像と神が矛盾することなく共存することになりました。
●「物語」の重要性
神が心の中にいるということは、各人が神についてどのような「物語」を作るかということです。人間の側からは、「物語」としてしか神について語ることが、恐らくできないのだと思います。その観点から、前に述べた史的イエスの問題について考えてみます。信仰と歴史的実証は、基本的に別の問題です。私は、一人のキリスト教徒として、1世紀始めにイエスという男がいたと信じています。しかし、それが実証されないということならば、そのことはそれで率直に認めなくてはなりません。その上で、イエスが語ったこと、行ったことの意味を見極めます。
私にとって重要なのは、イエスが救済主(キリスト)であるという「物語」なのです。
●啓示とは?
ただし、神に関する人間の恣意的な「物語」をキリスト教は許容していません。イエス・キリストに固く結びついて、神の啓示の光に照らしてしか、この「物語」を作ることはできないのです。ここでは啓示が決定的に重要な意味を持ちます。
キリスト教的な発想では、イエスの言葉は啓示なのです。人間の理屈の話ではなくて、超越性の問題なのです。それが、いいか、悪いか、について考えること自体が、キリスト教では禁止されているのです。「国家とはこういうふうに付き合え」とは、キリスト教徒に対する絶対的な要求である、というのが神学の考え方です。貨幣についても同様です。金で物事を判断してはいけない、えこひいきもいけない。これも絶対的要求です。
ですから、キリスト教徒でありながら守銭奴になるとか、キリスト教徒でありながら国家を神格化して、身も心も全て国家に捧げようとすることは禁止事項です。神以外のものを神と崇めたてるのは、やってはいけないことです。それは、いいとか、悪いとかいうことの彼岸の世界です。キリスト教的国家論というのは、その地点から組み立てないといけない、こういうことなのです。
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